不用意に森へ行ってはいけない。哀しい魂達が彷徨うから。暗い緑の樹々の底、報われない想いが渦を巻く。果てなき緑の深奥は、人外の妖しの棲むという…。
森の静寂を美しい響きが穏やかに破る。甘く切ない旋律に、和らかな声が重なる。
想いのたけを竪琴に託し、美麗な調べに詩をのせて。彼は歌う、永遠の愛を。見果てぬ夢と叶わぬ願いを。信頼と裏切りを。そして滅びゆく騎士道を。
そうやって自分の心を切り売りして僅かばかりの金を得る。旅に生きる『吟遊詩人』、それが彼。
誰もいない森の中、ただ竪琴の音と歌声だけが、緩やかに零れ落ちていく…。
やがて陽が陰り、吟遊詩人の歌声が途絶えた。困惑の表情を浮かべて立ち止まる。いつ果てるとも知れぬ深い緑。宿になりそうな小屋は無い。重い溜息を吐き、吟遊詩人は再び歩き出す。今夜の褥となるべき場所を探して。その唇から、あの和らかな声音はもう零れない。
どれ位歩いたのだろうか。吟遊詩人の穏やかな貌には焦燥の色が浮かんでいた。夕闇の中、樹々の緑は息苦しいほど濃さを増していく。
彼は知らなかった。この森は神々の怒りを鎮める為、飢饉の際の口減らしの為。『生け贄』と称して幼い子等を捨てる為の、古ぼけた礼拝堂が一軒あるだけで。『死者の森』と呼ばれるこの森に、近付く者とて無い事を。まして住む気を起こすなど、狂気の沙汰という事を。
突然、葉陰に何者かの視線を感じ、警戒の面持ちで立ち止まる。じっと佇む彼の前に現われたのは、この場に不似合いな少年。いや寧ろ、余りにも相応しいというべきか。
儚げな微笑に誘い込まれるように、吟遊詩人は少年へ歩み寄る。あと一歩で手が届く、その瞬間を見計らっていたように少年は身を翻した。
我を忘れ、吟遊詩人は少年の後を追う。何処へ行くとも知れず、眼前の小さな背を見失わぬように。ただそれだけを思い詰めて。
何時しか二人は森の最奥部へ入り込んでいた。それでも尚、少年は走り続ける。更に奥へ、奥へと…。
誘われるまま、吟遊詩人はそれと知らず禁域へと踏み込んでいた。いつしか陽は完全に落ちて、辺りは完全に闇に閉ざされている。樹々の暗い影が二人を包み隠す。
やがて少年が立ち止まった。その背越しに灯りを認め、吟遊詩人は漸く息をついた。忘れていた疲労がその貌に浮かび上がる。
朽ちかけた礼拝堂。それでも雨露を凌げるだけ良いだろう。そう考えるともなしに考えつつ、吟遊詩人は少年と共に扉をくぐった。
嬉しい事に内部は意外に明るく暖かかった。戸惑い気味な彼を、大勢の子供等が出迎える。一番歳かさの少女ですら、十八になるやならずといった処か。
共に来た少年は何も語らなかった。そして吟遊詩人もまた、何も尋かなかった。行きずりの身で他人に深入りしてはいけない。旅の中で、知らず身に付けた処世術。
供された食事を有り難く受け入れる。自分達は済ませたから。そう言って子供等は、ただ彼を見つめていた。
居心地の悪さを無理矢理に咀嚼して、血の色に似た葡萄酒で流し込む。まるで絡み付く視線を避けるように。ずっと俯いたままで。
漸くの思いで食事を終え、吟遊詩人は傍らの竪琴を手に取った。食事と宿の礼に何か詩をと思ったのだ。何気なく、いつものように。
繊細な指が弦を滑り、美麗な旋律を紡ぎ出す。彼は歌う、樹々の緑を。その深奥に潜む精霊達を。和らかな声音が語る、闇の賛歌。
子供等はただ黙って聞き入っていた。静まり返った森の中、楽曲だけが零れ落ちる。
曲が終わると、沈黙に促されるように吟遊詩人は次の詩を奏で始めた。幾対もの瞳に浮かぶ無言の要求に応える為に。
夜の静寂を破り、樹々の深緑を縫って。竪琴の音が再び流れ出す。その唇から古の物語が蘇る。
彼は歌う、朝日の中に生まれる新しい生命の賛歌を。煌めく露の如く清らかな、未来に繋ぐ夢の如き瞬間を。
そしてまた歌う、大海原を行く船乗り達の野望を。何時かきっと、見知らぬ世界に辿り着く事を信じて。真っ白な帆に一杯の風を受けて。引く事を知らず果敢に進む、海の男達を。
更に歌う、初々しい初恋人達を。瑞々しい感動に包まれた、淡い恋の詩を。行く手に見えるのは、希望に満ち溢れた将来のみ。
子供等は一心に聞き惚れていた。時に微笑を、時に涙を浮かべて。まだ見も知らぬ世界を焦がれる様に。憧憬と諦念が幼い瞳一杯に溢れ、零れ落ちる…。
途切れる事無く竪琴の音は鳴り響く。そして吟遊詩人の歌声もまた。得難き熱心な聞き手を前に、今や彼は、忘我の境地で詩を紡ぐ。
子供等はひたむきに耳を傾けていた。身じろぎもせず吟遊詩人を凝視する。その沈黙さえも、熱気をはらんで彼に纏わり付く。その正気をじわじわと絡め取っていく。
まるで静寂を恐れているかの如く、子供等は楽曲が終わる毎に次の曲を所望した。もう一曲、更にもう一曲。終わり無い要求は、何時しか吟遊詩人を倦み疲れ果てさせていく。
それすら気付く暇も無く、尚も彼は歌い続けた。沈黙に気圧されて、請われるままに。その幼い貌に燃え立つ一途な望みに、応えてやりたくて。知っている限りの詩を語り聞かせる。
既に眼前の聞き手の年齢を忘れ去り、彼の詩は悲劇の色を呈していく。哀切を帯びた旋律が響き渡る。
彼は歌う、亡国流転の哀しみを。栄華を剥がれ、異国へ落ち延びる姫君を。主を失い彷徨う騎士達を。行く当ても無く、帰るべき故郷も失って。ただ日々をやり過ごす、その虚しさを。
そしてまた歌う、裏切りの詩を。信じる者に欺かれ、生きる事さえ痛みに変わる。それでも尚、浮き世を漂い続ける、その哀しみを。
更に歌う、愛する者を喪う哀しみを。泣く事も叶わず、忘れる事も出来ず、永遠の闇に向き合わねばならぬ慟哭を。切ない声音で歌い上げる。
震える指先、擦れる声音。吟遊詩人は憑かれた様に歌い続けた。子供等の昏い瞳に縛られ、その声無き声に促される儘に。いつ果てるとも知れぬ夜の闇に、楽曲だけが絶え間なく鳴り響く。
どれ程の時が過ぎたのか。古の詩を歌い尽くし、自作の詩を使い果たして。遂に彼の唇から禁断の詩が零れ出す。
彼は歌う、神々の怒りに震える人々を。愛する幼な子を身代わりに差し出して。それでも尚、自身だけは生き延びようとする。その目を覆うばかりの浅ましさを。
運命に弄ばれ、未来を手放して、ただ待ち受ける死神の腕に手渡される。頼るべき者に見捨てられた、生贄の子供等の嘆きを。最期の息で尚、母の名を呼ぶ哀切を。
子供等の瞳に苦痛の色が浮かぶ中、彼はひたすら歌い続ける。眠れぬまま漂う魂達を、その本来の姿に戻す為に。当に喪くした。失くしたままでいたかった。決して癒えない、過去の痛みを覚醒させる為に…。
漸く長い長い夜が明けた。深緑に満ちた森の奥底にも、朝陽が射し込み始める。
朽ち果てた礼拝堂からは、何の物音も聞こえない。生きる者とて無い、死の静寂だけが支配する。此処は本来、そういう場所だから。
朝靄の中、二度と竪琴の音が響く事はなかった。そして吟遊詩人の歌声もまた。最期の詩を奏でた時に、彼の運命は決していたのだ。もしかしたら…少年と出会った時点で既に、そう定められてしまったのかも知れない。
そして彼は扉を開けた。いつ果てるとも知れぬ時の中で、悲嘆に暮れる魂達を慰める為に。その身内に蓄えた詩を、紡ぎ続けている。終わらない夜、明けない闇。永遠にも似た時間を与えられて。言葉を繋いで。
何時の日か、神が『もう良い』と言う、その瞬間まで。吟遊詩人は歌い続けている。
深い樹々の底、幾対もの昏い瞳を前に。その最後の一対が安らぎを得るまでは。彼自身に安息が訪れる事は、決して無いのだ…。
森の奥深く、夜毎美しい旋律が流れるという。未来を失い、愛を喪い。全てを奪われた魂達を、慰めるが如く。この世のものとは思われぬ、その美麗な調べを耳にした者は、二度と森の外に出る事は叶わぬという。
噂は広く囁かれ、森は更に人の近付かぬ聖域となった。土地の者は元より、旅人が迷い込む事すら今は無い。眠れぬ魂達のみが、今も尚、森を彷徨っているという。
誰も近付く者とて無い死者の森。未だ昇華されぬ、その哀しみだけが渦を巻く。樹々の深緑の中を、鎮魂の詩は今も流れ続けている…。