最期の朝だから


何も言わないで。
何も尋かないから。
ただ一瞬に、二人の想いを込めて…。

夜明け前。
外の薄明かりに目が覚めた。
躯を包む貴方の腕を擦り抜けて、そっと障子を開けてみる。
「雪…。」
何時の間にか、昨夜の雨は雪に変わっていたらしい。眼前に拡がる一面の銀世界。
季節外れの雪は尚も降り続けている。

「何をしている?」
笑いを含んだ声音に振り返る。
半身を起こした貴方が私を見ていた。
切れ長な双眸はまだ眠たげで。口元には微笑を浮かべている。
整った顔立ちは、めったに見せない優しい表情をしていて。

不意に愛しさがこみ上げて。思い掛けぬ程の強い感情に、涙が零れそうになる。
私は再び戸外の景色に視線を戻す。
旅立ちの日に、曇った顔は不吉だから。貴方が最期に思い出す私は、きっと笑顔であって欲しいから。

背後で貴方が立ち上がる気配がした。静かに歩み寄り、そっと私の肩を抱き寄せる。
まるで壊れ物を扱うように。
二人とも何も言えなくて。視線を外に向けたまま、お互いの温もりを感じていた。
このまま時が止まれば良いのに。
永遠に貴方とこうしていたいのに…。

先刻の決意と裏腹に、頬を涙が伝う。
喪いたくはない。この美しい男を死なせたくはない。
叶わぬ願いと知りつつも、涙が溢れて止まらない。
そんな私を貴方はただ黙って抱いている。

どれ程の刻、そんな風に佇んでいたのか。
不意に貴方が私をきつく抱き締める。
躯が撓む程の熱い抱擁は、貴方なりの別れの挨拶。
私には言うべき言葉も無くて。貴方の背を掻き抱くしかない。

やがて貴方は無言のまま私を手放した。
身支度を整えるその瞳は既に、普段の冷徹さを取り戻している。
間近に迫る戦火の如く昏い輝き。
そんな貴方も好きなのだけれど。ふとそんな事を想い、我知らず微笑が浮かぶ。
私は貴方をじっと見つめている。
二度とは会えぬ、この姿を忘れぬように。愛しい想いを見失わぬように。

「御武運を…。」
すっかり身支度を整えた貴方に、佩刀を捧げ渡しつつ。私は精一杯の笑顔を作る。
貴方の心を曇らせぬように。
この大切な日に、私が貴方の重荷とならぬように。
「行ってくる。」
晴れやかな笑みを浮かべて貴方は言う。
まるで直ぐ帰って来るかのように、何気ない台詞。それは貴方の思い遣りだったから。
「行ってらっしゃいませ。」
私も同様に、何気ない台詞で送り出す。
例えこれが最期の別れでも。そんな事は気付かぬふりをして。
永の別れは心の中だけで告げて。

遠ざかる貴方。振り返らぬその長身の背を、私は何時までも見つめ続けている。
どんな些細な事も見逃さぬように。貴方の全てを私の脳裏に焼き付けていられるように。
いずれあの世とやらで再会した時に、貴方をそれと分かるように。

この日を境に、私は貴方に再び会う事は無かった。
遠い地で最後の闘争を繰り広げる貴方。
転戦しつつ遂に極北の地で斃れるまで。貴方には、敵の軍門に下る事など出来はしないから。
風の便りにその報せを受けた時も、やはりそうだったのだと思っただけ。
それは分かっていた事だったから。

最期の瞬間まで、貴方は前を見つめていたのだろう。
極寒の大地に斃れ伏すその時も。恐れを知らぬ瞳のままで。
貴方は風となり、先に逝った仲間達の元へ翔けて行ったのだろう。

もう、泣いても良いですか?
二度と貴方の瞳に私が映る事は無いから。
その美しい顔を曇らせる事は無いから。
だからもう、泣いても良いですか?
思い切り泣いて。この体中の水分を全て涙に変えて。
貴方を想って、ただ泣いていたいから…。

今でも時々、あの朝を想い出す。
貴方と共に一夜を過ごして。その腕の中で目覚める事の出来た。
あの朝の事を。

何も言えなくて。
何も尋けなくて。
ただ一瞬に、二人の想いを込めて…。
忘れない。
忘れたくない。
私と貴方の、最期の朝だから…。

 

―― Das Ende. ――



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