Salome



「彼の人の首級を戴きとうございます。」
 舞の褒美をと言う父上に、私はそう答えた。その瞬間、広い王宮が不気味な程に静まり返る。まるで時が止まったかの如く。その場に居合わせた者全てが、返答や如何にと、固唾を呑んで見守っている。
 父上が敢えて彼を長らえさせていたのは、神の遣わされた者を手に掛ける、その事を恐れていたからで。けれど今、この場で事を成さねば、この国が打ち滅ぼされてしまうだろう。強大な国を相手に、神を恐れぬ異教徒と謗り、その支配を圧政と決め付けた。それは致命的な過ちだった。この国の安寧と彼の生命、我々は二者択一を迫られているのだ。最早、一刻の猶予も赦されてはいない。
「他に望みは無いのか?宝石か、絹の衣装か、何か他の物は?」
「どうか、彼の人の首級を。私の望みはそれだけです。」
 この期に及んで、未だ心を決めかねる様子の父上に、私は重ねて請う。今更何を躊躇っておられるのか。こうなる事は分かっていた筈。王権の威信に掛けて、もう覚悟をお決めなさい。神の怒りも天罰も、全て我が身に受けましょう程に。
 言葉に出さぬ想いが通じたのかどうか。長過ぎる沈黙の後、父上は黙って頷いた。その表情は苦渋に満ちていたが、ほんの微かに安堵の色が窺えた。
 誰かがほぅっと溜息を吐いた。凍り付いた時が、再び流れ出す…。

 それから、小半刻も経った頃だろうか。銀盆を掲げた二人の侍女が、静々と広間に参上した。彼女等は、まるで高価な宝物を捧げるが如く、恭しい態度で我が前に差し出す。磨き抜かれた盤上に澱む、深紅の血溜まり。その中央には、蒼褪めた彼の人の首級が鎮座している。酒席の座興の舞に、それは余りに過ぎた褒美だった。
 ―― これで、良かったのですね。
 両手に抱えた、彼の人の物言わぬ頭部に、そっと問い掛ける。声にならぬその囁きに、答えのあろう筈も無く。銀盆を支え持つ両の手に、その重みを感じつつ、私はその場を後にした。
 泣いてはいけない。涙を見せては負け。そう自分に言い聞かせる。今更に嘆く位なら、その首を刎ねよと、そんな事を望みはしない。これは私が望んだ事なのだ。後悔などしてはいない。我が国を、我が臣民を救う為に、誰かが決断せねばならぬ事だったのだ。悲しくなんかない。

 彼の人が何処から来たのか、誰も知らなかった。曰く、偉大な預言者の生まれ変わりだとか。曰く、天より遣わされた神の御子だとか。真偽の程も定かではない噂は国中に轟き、宮中にまで届いていた。私が地下牢の彼を訪ねたのは、ほんの気紛れだった。
 私を見詰めるその瞳は、一片の曇りも無く澄んでいた。神の教えを説くその声は、朗々と響き渡った。その同じ声音で、亡き兄の妻を娶った我が父を、人倫に悖る振舞いと咎め立てたのだけれど。
 蓬髪を一つに纏め、獣の皮を被り、野人の如き姿をしたその囚われ人に、何故か心を捉われて。日毎夜毎、私は彼の元へと通った。その静かな眼差しを受け止める為に。その穏やかな声の響きを楽しむ為に。地下牢の天上近く、地上すれすれの位置に設けられた小さな窓。そんな僅かな隙間越しに、私達は言葉を交わし続けた。
 余りにも一途で、痛々しい程に真摯なその想いは、それ故に、現世と妥協する事など出来る筈も無くて。その所為で、身も心も深く傷付いて。それでも尚、彼は語り続けた。偉大なる神の御言葉を。その愛と慈悲を。来るべき裁きの時を。

 結局それが、彼の身を滅ぼしたのだ。その唇は色褪せ、もう二度と神の道を説く事はない。熱を帯びて輝いていたその瞳は最早、永遠に陽の光を映す事はない。
 これが彼の運命だったのだ。後に続く者の道標として、茨の道を踏み固める為に。やがて約束の時に訪れる筈の、神の子に先んじて、その歩むべき道の露を払う為に。その身を差し出さねばならなかったのだ。
 ―― これで、良かったのですね。
 彼の人の殉教は、かねて予言されていた事だったから。神の御業を示す為、予言の成就によってのみ、その魂は永遠たり得るのだと。そう教えてくれたのは彼だった。
 私はただ、彼の人がその役目を果たす為に、手を貸しただけ。私もまた、私自身の役目を果たした。そう、それだけの事なのだ。

 愛しい人の首を胸に抱けば、未だ乾き切らぬ血に、指先が赫く染まる。疾うに冷え切った唇に、固く閉じた両の瞼に、そっと口付ける。髪を漉き、届きはしないと百も承知で、その耳に囁き掛ける。
 ―― 本当に、これで…。

 

―― Das Ende. ――



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