「おはよう。今日も良い天気だよ。」
答えが返らない事は分かっていても、僕は彼女に声を掛ける。だって彼女は今にも目覚めそうで。ただ微睡んでいるだけの様に見えるから。
「今日は花を持って来たんだ。紅い薔薇。好きだったろう?」
抱えてきた花束を花瓶に移す。僕には生け花の心得なんか無いから、花束ごと差し入れるだけ。
真紅の薔薇は白い病室には不似合いで。其処だけやけに艶めいて見える。やっぱりもう少し薄い色の花にすれば良かっただろうか?花屋の言う通り、フリージアか何か、他の花にした方が相応しかったかも。
「もう良い加減に目を覚まして欲しいな。」
それは僕の偽らざる素直な気持ち。けれどやっぱり答えは返らない。彼女は相変わらず穏やかな寝顔を見せるだけ。承知している筈なのに、溜息が漏れてしまう。
僕は部屋の端から椅子を引き寄せ、彼女の枕元に座る。そうして暫しの時間を、彼女を眺める事に費やすのだ。それが僕の習慣になっていた。
今日は目覚めるかも知れない。もしかしたら、再び会話を交わす事が出来るかも知れない。そんな期待はいつも裏切られるだけなのに。僕は暇さえあれば此処に来て、彼女に声を掛ける。
「一体、何があったんだい?そんな風に眠りに逃げ込むなんて…。」
ある日突然、彼女は目覚める事を止めた。医師の話では、何か大きな精神的ショックを受けたのが原因らしい。心の傷が癒えれば自然に目が覚めるでしょう。彼が無責任にそう言ってから、もう一ヶ月が経つ。
「何故、僕に相談してくれなかったんだ?誰にも話さず、自分一人で抱え込んで。その結果がコレなのか?」
何もかもを僕に話す必要なんか無い。君が君であるだけで、僕には充分だから。前に僕は君にそう言った。その気持ちは今でも変わっていない。君の過去を全て知りたいなんて思わない。色んな事を経験して、それで今の君があるのだから。
でも、その所為でこんな事になるのなら。僕はもっと問い質すべきだったんだろうか?彼女の全てを聞き出して、心の傷を抉じ開けて。そうしていれば、君は今でも笑っていられたのか…?
覚めない眠りの助けを借りて、現実から逃避して。僕だけでなく、周り中の全ての人から目を背けて。悩みや苦痛を脱ぎ捨てて、辛い事は全て現実に置き去りにしたのだろう。その穏やかな寝顔には、苦痛の翳は見当たらない。
どうしてこんな事になってしまったんだろう?もう何度目か自分でも分からない、同じ疑問を蒸し返す。
彼女は良く笑う女の子だった。その屈託ない笑顔は、見ているだけで此方も楽しくなってしまう様な。勿論、彼女にだって悩みはあっただろう。だけど自分の事は極力自分で何とかしようとする。そんな何処にでも居る、ごく普通の女の子だったのに。
「君はそれで満足なのか?たった一人、夢の世界に居て。それで君は幸せなのか?」
僕は彼女に問い掛ける。決して答えは返らない。ちゃんと此処に、僕の目の前に、確かに彼女は居る。けれど彼女の心は手の届かない場所にあって。僕の言葉に耳を傾ける事すらない。真紅の薔薇の浮かれた香気が鼻に付き、遣り切れなさだけが募る。
「そろそろ、行くよ。」
これ以上此処に居ると、きっと恨み言を並べ立ててしまうから。そう心の中で付け加えて、僕は漸く立ち上がる。相変わらず答えはない。彼女に背を向け、病室の扉に向かう。戸口で立ち止まる自分に気付き、僕は思わず苦笑した。
自分の諦めの悪さに、我ながら呆れてしまう。何時まで経っても僕は慣れる事が出来ないんだ。君が、君の心が不在だという、その事実に。もしかしたら目覚めるかも知れない。そう心の何処かで期待し続けている。
それがある限り、僕は此処に訪れるのだろう。今日こそは、明日こそは…。そんな風に儚い望みを繋ぎ止めて。彼女の寝顔に繰り返し語り掛けるのだ。
「また来るよ。」
最後にそう声を掛けて、僕は病室を後にする。背後で扉が閉まる音だけが、それに答えた。
僕の大切な眠り姫は、薔薇の匂いに包まれて、今も眠り続けている…。