「イヤよ!赤いのがいいのっ!」
金魚すくいの露店の前で、浴衣姿の幼い少女が声を張り上げる。帯の蝶結びがまるで小さい背中一杯に広がっている様に見える。
「だってお前、赤いのはお姉ちゃんが取ったんだから…。」
「わたしも赤いのじゃなきゃイヤっ!」
手を引く母親は困り果てた表情を浮かべた。
一匹も取れなかった少女が可哀想だと、人の好い金魚すくい屋がこっそりオマケしてくれたのだ。けれど『お姉ちゃんのが赤い流金だから』と、黒い出目金を選んだ配慮は裏目に出た。その面相の余り宜しくない黒い金魚は、どうやら少女のお気に召さなかったらしい。『黒は嫌だ、赤いのが良い』と頻りに訴える。
好意で貰ったソレを交換して欲しいなどと、言い出せるものではない。まだ若い母親は、どうして良いか分からず、ただオロオロと少女を宥めるしかなかった。
「良いわよ、黒いので、私は別に。」
ポンと投げ出すような口調。母と妹の遣り取りを他人事の様に眺めていた姉娘が、至極アッサリと申し出た。途端に妹が泣き止み、パァっと満面の笑みを浮かべる。母親と金魚すくい屋だけでなく、心配そうに見守っていた周囲の人々までもが、ホッと溜息を吐いた。
「流石はお姉ちゃん、偉いわねぇ。」
「よーし、お姉ちゃんにご褒美だ。」
そう言って金魚すくい屋は、姉娘の持つ小さなビニール袋にもう一匹、赤い金魚を入れてくれた。
「…ありがとう。」
奇妙な…どこか呆れた様な表情でそれを見ていた彼女は、一拍遅れて、それでもちゃんと礼を述べた。
「カワイイねぇ、赤い金魚♪」
「本当に良かったわね、金魚屋のおじさんが良い人で。」
母親の台詞に姉娘が首を傾げる。彼女は実は、『どうせ赤いのをくれるんだったら、妹がねだった時に直ぐくれれば良いのに』と思っていたのだ。だから金魚すくい屋が三匹目をくれた時に、素直に礼の言葉が出なかった。
そんな事とは露知らぬ彼は、頻りと姉娘に誉め言葉を連ねていた。けれど当の少女の耳には、一言だって届いてはいなかった。
そして母娘は、漸くその露店を後にした。
家に帰って、ガラスの鉢に水を入れて、貰った金魚を三匹とも入れた。底には小石の代わりにビーズが敷かれ、それはそれで中々に涼しげな風情を漂わせている。
「この赤いのが、わたしのだよね。」
「ハイハイ。」
「もう一匹、赤いのはママの。」
「あ、そ。」
「それで、黒いのがお姉ちゃんのだよ。」
「そーね。」
浮かれる妹とは対照的に、姉は気のない生返事を返すだけだった。
「別に金魚なんてドレも一緒よ。」
「そんなコトないもん!赤いののんがカワイイもん!」
「あぁもう、分かった分かった。」
姉の投げ遣りな言葉に妹が焦れて、泡や喧嘩になりそうな気配を察したのだろうか。母親が二人に割って入る。
「ホラホラ、もう遅いから。二人とも早く寝なさい。」
「ハーイ。」
妹の方はまだ何か言いたげだったが、それでも母親の言葉に従い寝床へ向かう。その小さな背を見送りながら、姉娘は小さく溜息を吐いた。
妹が泣き喚くのを聞いているより、自分が我慢した方がマシだ。そう思って、あの時はあんな事を言ったけど。
「私だって、赤いのが良かったよ…。」
囁く様な声でポツリと呟く。
何時からだろう?こんな風に自分を抑える様になったのは?
ぼんやりと考えていたら、突然、両肩に手が置かれた。振り返ると、母親が立っている。少しだけ困った様な、戸惑った様な、そんな笑顔を浮かべていた。
「お姉ちゃんはツライね…。」
「まぁね。」
「ママもお姉ちゃんだったから。気持ちは分かるなぁ。」
「うん…。」
肩に置いた手はその儘に、膝を付いて頬を寄せる。二人でガラス鉢を眺めながら、母親はこう囁いた。
「あの赤いの、お母さんとお姉ちゃん、二人のにしようね。」
「だからお姉ちゃんは、赤いのと黒いのと、両方持ってるの。」
そんな風に立て続けに言って、どう?と顔を覗き込む。
「あの赤いのも、私の?」
問い質す少女に、母親が悪戯っ子の笑みで頷く。
「二人だけの秘密よ。」
「ヒミツ…。」
「そ。バレるとまた泣いちゃうから。」
二人は顔を見合わせて、そっと笑った。
「さ、もう遅いから。お姉ちゃんも寝なさい。」
少女の顔から屈託が消えたのを確認して、そう促した。今度は彼女も素直に従う。
「はい、おやすみなさい。」
「おやすみなさい。」
そんな風に声を掛け合って、それからパチンと灯りを消した。
暗闇に置かれた鉢の中で、三匹の金魚が何事も無かった様にひらひらと漂っている。