海ノ見ル夢



 何処か北方の冷たい海深く、小さな魚が棲んでいました。沢山の仲間達と身を寄せ会う様にして。余り陽の射さない昏い海の底で。ほんの僅かな明かりだけを頼りに生きていたのです。
 ある日、小さな魚の一匹が恋をしました。海面付近を漂っていたその魚は、目も眩む程に輝いていたのです。光の魚が余りにも美しくて、小さな魚はただ見惚れる事しか出来ませんでした。
 その時からずっと、小さな魚は光の魚の事だけを想い続けていました。真昼の海で輝く眩い姿を。深夜の海で煌めく静かで凛とした佇まいを。いつもずっと上方に揺らめいているその光を、海底深くからそっと見上げていたのです。
 自分は余りに地味で小さくて。光の魚に近寄る事すら出来ないでいるけれど。その美しい姿を見るだけで、小さな魚はとても幸せなのでした。
 天気の悪い日や海が荒れる日には、光の魚の姿を見る事は出来なくて。小さな魚は岩影にじっと身を潜めながら、脳裏に光の魚を思い描いていました。その記憶があるだけで、小さな魚は嵐すら忘れる事が出来たのです。
 どれ程の時を、そんな風に憧れに胸を満たしていたのでしょうか。光の魚に少しでも近付きたくて。ほんの一言で良いから言葉を交わしたくて。小さな魚の心はそんな願いで一杯になってしまいました。
 海面は危険だから、決して近付いてはいけない。そう古老達に諌められたけれど。辛い想いは忘れて、此処で一緒に楽しく暮らそうよ。そう仲間達に慰められたけれど。それでも尚、小さな魚は苦しくて堪らなくなってしまったのです。
 そしてある穏やかな朝、小さな魚はとうとう決心しました。どうしても光の魚の傍に行きたくて。せめてその美しい姿を間近に見たくて。何時になく、海面近くまで上って行ってみたのです。
 憧れの輝く姿の直ぐ傍には、大きな暗い影が浮かんでいました。けれど小さな魚の目には、光の魚しか映っていなかったのでした。
 その影は漁船でした。投網が小さな魚を捕らえ、水から引き上げました。突然の出来事に、小さな魚は驚愕しました。息が出来なくて。体がとても重くなって。光の魚の姿を見る余裕すら無くて。小さな魚は苦しみ藻掻き続けました。
 明るい空の下、今こそ光の魚の姿を直に見ているのに。そんな事とは知らない儘に、可哀想な小さな魚の憧れは、その身を滅ぼしたのでした。
 そんな風にして、小さな魚は仲間達の前から永遠に去ってしまいました。
 蒼天に輝く太陽だけが、その様を静かに見守っていたのです。

 

―― Das Ende. ――



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